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真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む  (59)

 日が経つにつれ人影も少なくなった後(のちの)岡(おか)本宮(もとのみや)は毎日の政務が淡々と行われ、日が沈む前には門扉も閉じられるようになった。活気を失った宮廷にはどんよりとした空気が横に流れていった。行幸はひと月ほどの予定であったが十一月に入って、帰路の予定は新年になることが伝えられてきた。
赤兄は退屈であった。牟婁の行幸にしても置いてきぼりの感がぬぐえない。蘇我一族の中には中大兄皇子の独断的なやり方を快く思わない連中もいた。そんな不満は赤兄の耳にも届いていた。長老であった蘇我倉山田石川麻呂の冤罪事件が長く尾を引いているのだった。あれ以来、権勢を誇っていた蘇我一族の姿はなく、朝廷は一族の壊滅を願っているのではないかと危惧する長老たちの存在があった。その長老たちをなだめているのは連であったが赤兄は連のやり方には不満があった。朝廷の中ではこんなにも手薄になった宮殿を乗っ取るのはわけない、など冗談ともいえるひそひそ話を楽しむ者もいた。
“確かに乗っ取るのはたやすいかもしれん”と、赤兄は考える。だからといって立ち上がったところで、自らが高御座に上がれる身分ではない。ふと思い出したのが難波で酒を酌み交わした鯯魚の姿であった。飛鳥と市経が不平等に扱われていると鯯魚が口を滑らしたのを耳に残していた。
“あそこには有間皇子という優れた皇子がいると聞いている。何度かお見かけしているが、一度も話したことがない。はたしてどのような皇子であるのだろう。何故今回の行幸に随行しなかったのであろうか・・・鯯魚ほどの男があれほどまでに信頼を寄せている皇子とは、どんな人物であるのか・・・”
 そんなふうに考え始めると市経の里のことが頭から離れなくなった。市経の状況は守(もりの)君(きみ)大石(おおいわ)や坂合(さかい)部連(べのむらじ)薬(くすり)からもたらされていたが、それも中大兄皇子と鎌足にだけ伝えられており、二人が留守となった現在では音信不通であった。懇意になった鯯魚から一度遊びに来ないかと誘われていたことが思い出された。いい機会かもしれないと赤兄は腰を浮かした。
秋も深まり空気の冷たさが体にまとわりつく十一月の初めであった。目立った行列を組むわけにはいかないと五人の従者だけを連れて出発した。鯯魚には連絡を入れておいた。できれば一度、有間にも会いたい、それがかなわないのであれば有間が自慢にしている金堂だけでも見たいと伝えた。
出迎えた鯯魚は「有間皇子様とお会いできるかもしれない」と、赤兄に伝えた。市経宮は切り開かれた山間にありながらも難波宮を思わせる壮大な広さであった。その中でひときわ高くそびえたつのが金堂の瓦屋根であった。
噂に聞こえた金堂に足を踏み入れた赤兄はその荘厳さに身を引き締めた。本尊の阿弥陀仏は有間の父である孝徳天皇が千仏を刻ませた山(やま)口直(ぐちのあたい)大口(おおぐち)の手による仏像であった。しばらくたって有間が金堂に入ってきた。家臣を連れず、米麻呂だけを従えていた。赤兄は丁重なあいさつを述べ、有間の方へそっと顔を上げた。ほっそりとした姿と色の白さは女人と見まがえるほどであった。“武器を手に戦えるお方ではない”と、咄嗟に思うのだった。
「そなたの兄は石川麻呂だと聞いたが」
「さようでございます。寺の完成半ばで自害に至りました。その伽藍(がらん)の荘厳さは唐の国に並ぶものでございました。金堂は完成いたしましたが、あとは主を失って工事が途中となっております。蘇我氏の象徴ともなるべく寺院になるはずでした」
「再興したいとおもわないのか?」
 赤兄はこの時になって初めて有間の顔を正面から見た。何かを言わんとしているのか、それともただの興味だけなのか、美しい顏からは推し量れなかった。日頃は雄弁な赤兄であったが言葉が出てこなかった。有間は立ち上がり、解放された扉から霞んで見える山々に目を細めた。
「阿弥陀さまに祈るのが僧侶の仕事なら、私の仕事は何であろう・・・」
 赤兄は鯯魚の顏を見た。快く蘇我一族の者を招いてくれたのには魂胆があったのか。鯯魚軍団は大和では一番の勢力を誇っている。それを統括する鯯魚が信頼を寄せているのが有間である。僧侶のふりをし、女人のような美しい皇子であるが、何かの力を潜ませているのかもしれない。
「広間に席が設けてある。くつろいでもらいたいという有間皇子さまの心遣いをお受け取り願いたい」
 これほどまでのもてなしを受けるなど思ってもみなかった赤兄はすっかり上機嫌になってくつろいでいった。大石や薬は赤兄の存在に戸惑っていたが、人の好い二人はすぐに打ち解けていった。有間が席を立ってからも酒の強い鯯魚と赤兄は饒舌に語り合っていた。赤兄は酔いに任せて朝廷の批判をはじめた。
「大王の政策を支えているのが第一皇子であるが、この方の思い込みにはついていけないところもある。大王の政策には三つの過ちがある」
 鯯魚は興味なさそうに杯をあおった。
「よいか、中大兄皇子さまは政策の間違いを正すお立場にありながら、正そうとしないのはいかがなものか、非難の矛先を大王に向け、次の高御座を狙っているという噂もある」
「何を言う。次の高御座は孝徳天皇からの約束事で、有間皇子さまと決まっておる。しかし、大王の政策が三つも間違っておるとはどういう事だ」
「ひとつ、税の重さよ。民は豊作でなくても差し出さなければならない。朝廷では倉庫まで立て、血のにじむようなおもいで差し出す民の租税を集めておる。倉庫が増える一方よ」
「二つ目は?」
「土木工事。いつ終わるともわからん溝を掘りつづけるが、何のためか、さっぱりわからん。三つ目も同じく、民に無益な労力を強いておる。船に石を乗せて運ばせ、積んで丘となす。全ては民のためではござらん。労役に駆り出された民の畑は荒れ放題。しかもその荒れた田畑から税を搾り取ろうという。こんなことを続けてよいわけがない。朝廷でもこの話は誰一人として知らぬものはない」
「少し酔ったようだな。風にでも当たらぬか」と言いながら鯯魚は赤兄を促した。大石と薬も従った。長い廊下を歩き御簾の下がった部屋に通された。そこには有間と米麻呂と数人の家臣が控えていた。
「赤兄どの、先ほどの話をもう一度聞かせてはくれまいか」と、鯯魚が促した。赤兄は有間に額ずいたまま、同じことを語った。鯯魚が赤兄の方に身をずらしてきた。
「新羅に向かわせている軍団を呼び寄せている」
 赤兄の顏から血の気が引くように白くなった。

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真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む  (58)

 牟婁の湯行幸は十月十五日と決まった。この時に移動した朝廷の人数は三百人ともいわれる。直前まで有間は迷っていた。もう一度牟婁に行きたいと思っていたが、今回の主役は斉明天皇であり、大勢の皇族貴族の中の一員として行くことになる。宮人と生活を共にすることは、彼らと距離を置いて市経にとどまっている有間にとって、わずらわしさがあった。有間は行幸を断るため大王のもとへ上がった。
 斉明天皇は体が一回り小さくなったのではないかと思われるほどやつれていた。牟婁の湯へ行幸することにさほど意欲的でもなかったが、有間の訪問を喜んで迎えた。
「ついこの間あったばかりというのに、何だか大人になられたような」と言って、有間の時候のあいさつをにこやかに受け止めた。御言持ちとして仕える額田も笑みを浮かべるようにして額ずいて出迎えた。有間にとって間人の姿がないのが寂しかった。その心中を察したのか額田が顔を上げた。
「中皇(なかつ)命(すめらみこと)様は難波宮にお帰りになっております。このたびの行幸は難波港から船で出発いたしますので、そこで合流いたし、牟婁の湯に同行されます」
 間人は重祚した斉明天皇が高御座に上がっている現在も、「中皇命」と呼ばれていた。ほとんど飛鳥に滞在していたが難波宮がそのまま維持されていたからであった。
大王は牟婁の湯に同行しない断りの言葉をうわの空で聞くようであった。有間の言葉が終わるのを待って、「市経のあたりは厩戸皇子を信奉する貴族が多いと聞くが」と、聞いてくるのであった。有間は意外な思いで顔をあげ、「はい、私も厩戸皇子様が学ばれたのと同じ書物を学んでおります」と、明るい声になった。その仕草が子どものように可愛く思う額田であった。
「私は昔、厩戸皇子に一度だけ会ったことがある。大国から取り寄せた多くの書物に囲まれておった。言葉を交わすことはなかったが、なんと澄んだ目をしているのかという印象であった。誰とも交わることのできないほど、特別なところにいるように思われるお姿であった。そなたも同じ目をしておる」
有間はほんのり顔を赤らめた。大王は表情を和らげて「そなたが目指すのはまことに、僧侶であるのか」と聞いた。
「はい。いずれ市経の宮を寺院にしたいと考えております」
「さようか・・・」と、言ったきり何かを考えるふうに遠くへ眼差しを向けた。しばらくたってから有間の方へ顏を向け、「私が小さな子どもであったとき・・・」と、思い出すように語り始めた。
「娘の時、宮廷でおみかけする推古天皇にあこがれを抱いていた。何度かお声もかけてもらった。最初の婚儀はその方からの申し出に従ったものだった。しかし縁がなく、舒明天皇に嫁ぐこととなった。おそらく、その方のご意志が働いてのことであったと思う。その時に抱いた憧れは今もはっきり思い出すことができる。女人であっても自らのお言葉で祭りごとを行っておられた。そのお姿はまばゆいほど輝いておられた。私にもその機会が来るようにと、いつしか願うようになっていた。現在、こうしてあるのも、推古天皇のお導きであろうと感じておる。しかし・・・今は大きな不安となっている。若いころならそんなこと考えもしなかったが今は体力が尽きておる」
「健皇子が亡くなられて日も浅いからでございましょう。牟婁の湯でお休みになれば元気が戻られることでしょう」と、言いながら有間は民の現状を口にするべきか迷っていた。近習もいない大王のすぐそばである。この機会なら話を聞いてもらえそうだ。話すべきかと思った瞬間、「ところが、思い出したのじゃ」と、大王は有間の方へ体を傾けた。
「推古天皇が心の支えにしていたのは厩戸皇子であったということを。有間もそのような存在となって、私を支えてほしいということを伝えたかった」
 出家してくれるのはありがたい。それは斉明天皇の本意であった。乙巳の変のあたりから息子、中大兄皇子とはぎくしゃくしていたが仲を取り持つ鎌足の奔走で今はむしろ一番の頼りとしていた。その息子に高御座を譲りたいと考えるようになっていた。しかし、弟である先の天皇との約束を忘れることはできない。有間が僧侶になってくれればすべてがうまくいく。
「そのようなお力になれるよう、勉強に励んでまいります」
 会見はそれだけで終りとなった。
 飛鳥から帰路についた有間に米麻呂が話しかけた。馬に乗っているのは二人だけで、その周りを二十人ほどの従者が取り囲んでいるが小声なら聞こえないはずだった。
「僧侶になるおつもりでありますか」
「そうだ。阿弥陀さまが救いの手を差し伸べてくれるよう、祈りたい」
「市経の里の民たちのためにですか」
「もちろんだ」
「民の飢えは広がっております」
「今年の稲穂は豊かに輝いていたではないか」
「こんな話をするべきではないのですが・・・」
「どうした、米麻呂なら何でも話してくれるであろう」
米麻呂はしばらく言いよどんでいたが「飛鳥では豊作が伝えられておりましたが、われらの地は豊作ではありません。なぜなら田を耕す男たちがいないからです」
 有間は黙って聞いていた。その様子を覗いながら、「飛鳥では新たな土木工事が始まっております」と、米麻呂は付け加えた。話してよかったのかどうかと考え、一歩下がった馬上から有間の横顔を見つめた。言葉はかえってこなかった。それ以上二人は何も語らず、日の沈みはじめた山道を進んで行った。
 牟婁の湯の行幸は盛大に行われた。あたかも都が移動するのではないかと思われるほどの人々が、何艘もの船に別れ乗り込んでいった。宮廷人にとって生まれて初めて海原を体験できる機会である。取り残されたような思いで船を見送っていたのは蘇我赤兄だった。初めは随行が許されていたのに急きょ取りやめになったのだった。留守司(るすのつかさ)を申し付けられていた兄の連(むらじ)が病を患い寝込んでしまったからだった。その補佐を申し付けられるまで旅の支度は整えていた。鯯魚から航海の楽しさを聞かされていただけに失望は大きかった。用意された船は鯯魚海軍のもので、鯯魚はその指揮を任されていたが乗船はしなかった。任には鯯魚の一族が付いていた。
船が小さくなるまで見送っている赤兄に声をかけたのは鯯魚であった。
「私は市経へ帰るが今夜は難波で飲み明かさないか」
「それはよい思い付きだ」
 赤兄の心は少し軽くなった。二人は身分の違いを感じることなく意気投合して飲み明かした。酒の席という事で気が緩んだのか鯯魚は海軍の威力を誇張して赤兄に聞かせた。
「日頃の人足が武器もこなせるというのか」
「もちろんだ。彼らはもともと百済の軍人たちだ。何度も新羅の遠征にも出向いている。ついこの間も出港したばかりだ」
 赤兄の赤く染まった顔に暗い光がつらぬいていった。赤兄はふいに上機嫌になって踊りだした。鯯魚も立ち上がり、周りの近習たちも浮かれに乗じてはやし立てた。酒盛りは陽が白み始めるまで続いた。

真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む  (57)

 春風とともに若葉の匂いがたちこめる五月の晴れた日、朝廷を騒がす訃報が駈けぬけた。中大兄皇子の第一皇子である建(たけるの)皇子(みこ)が原因不明の高熱を出し、わずか三日目で息を引き取ったということであった。集められた高僧の祈祷のかいもなかった。
健皇子は八歳であったが腺病質なところがあり、しかも口をきくことができないという障害もあり、公の場所に姿を現すことはほとんどなかった。母は自害した蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)ということであったが、誰もがその出自に疑問を持っていた。ほどなく、遠智娘が父の死を悲しむあまり、幼い子どもを残して自らの命を絶ったということで、出自の詮索は掻き消えてしまった。
 悲しみをあらわにしたのが斉明天皇であった。日頃より健皇子を身近に招き、口がきけないことを不憫に思い、誰よりも可愛がっていた。高熱で顔を真っ赤にしながらもわめくことなく、耐えて寝ている姿がいじらしいと、病床を離れることもなかった。
「言葉を発することができたなら、どこが痛いとか、胸が苦しいとか訴えられたものを・・・」と、泣き崩れた。
 有間もすぐに駆けつけた。有間にとって唯一、宮廷で心を許せる友であった。健皇子も有間をことのほか慕い、姿を見ると駆け寄ってくるのが常であった。建皇子は有間の手を取り、言葉にはならない声を出す。有間にはその声を聴くだけで、言葉を聞いたように伝わってくるものがあった。健皇子が有間に信頼を寄せ、それに応えているほほえましい姿を誰もが知っていた。ただ一人、その姿に目を背ける者がいた。
「何か通じるものがあるのであろう」と、父である中大兄皇子であった。
 大王は有間の姿を見るやいな、声をかけようとするが、有間の方は周りに目もくれず健皇子の病床に走り寄り、体を震わせた。有間は健皇子の手を取り、語り続けた。その姿を見つめる大王の脳裏には有間と健皇子がはしゃいでいる姿がうかんできた。誰よりも有間といると楽しそうに笑うのも知っていた。隠れている有間を必死に探す姿も思い出された。大王は走馬灯のように浮かんでくる幼い孫の姿に涙をこぼすのであった。
 八歳といえども第一皇子としての葬送の儀は厳かであった。有間は参列することなく、市経の金堂にこもっていた。本尊の阿弥陀如来坐像をみつめ、ひたすら健皇子のことを考えていた。その姿が定慧の姿と重なっていく。青くそり上げた定慧の頭の上が黄金に輝いていた。有間に微笑みかけている。その微笑みは健皇子でもあるようだった。
“私も出家したい”という思いが大きく膨らんでいった。
六十を過ぎた大王は一夜にして白髪も増え、食事もとらなかった。権勢を誇っていた姿は見当たらなく、健皇子の部屋を出ようとはせず、疲れ切った老婆のようにうずくまっているだけだった。
「私は十分に生きた。この子と一緒に葬っておくれ」という始末であった。
 葬送の儀が済むのを待って、大王は床に伏せる日が多くなった。鎌足はこのままでは再び退位を口にするかもしれないという危惧を感じていた。
「それはちょうどよいではないか。私は第一皇子だ。即位に何の支障があろうか」と、中大兄皇子は、鎌足の危惧を意外だといった顔で一笑した。
「漏刻の建設が終わらないことには、即位の儀に関わる費用も時間もございません」
「漏刻は民にとっても時を知る重大な施設。民のための建設であるのに何の不満があろう」
「水路の建設が長引き、故郷に帰れない多くの民の不満はつのっております。政権交代ともなれば、その隙に乗じて土木工事への不満が噴出さないとも限りません。なんとしてでも、大王様にはあらゆる風を受け止めてもらわねばなりません。大王様が女帝だからこそ、それができるのでございます」
「即位を焦れば苦境も大きい・・・と、いうことであるか」
「即位は焦らずともやってきます。今は世の不満を大王様の力により封じ込めておくのが得策かと」
 中大兄皇子は頷きながら腕を組み、しばらく遠くを眺めていた。
「何か良い方法はないか・・・」と、かたわらの鎌足促す。
「何か?良い方法といいますのは?」
「お年であるから気も弱くなっておられる。一旦、退位を口になさると後に引かないことは前回でも経験しておる。何をすれば健のことを忘れてくれようか。いや、元気を取り戻してくれようか」
 鎌足は瞬時に考えをめぐらすふうであったが、どれも気に入らないのか目を閉じて首を振った。
「大王のご機嫌伺いにでも参ろう」と、中大兄皇子は立ち上がった。
「大王様にお元気になっていただく方法がございます」と、鎌足は声をかけた。中大兄皇子は「聞こう」と、足を止めた。
「有間皇子様が牟婁の湯に行かれ、お元気になって戻られたのは牟婁の気候と薬湯の成果だと伺っております。その時のお話に、たいそう耳を傾けておられたのを記憶しております。行ってみたいとも申されておりました。薬湯につかり、朝廷の政務を忘れのんびりとしていただくにはよいところかと存じます。効果はそれだけではございません。国が一つにまとまり、朝廷の権威を増大する機会にもなります。大王の行幸(ぎょうこう)ともなれば行く先々に権威の印を残すことができます。大王の宿泊する館建設を依頼すれば、紀州の塩屋の勢力を知る機会ともなります」
「なるほど・・・あちらの方は手薄であるからな」
「その間、民にも休暇を与え鋭気を養ってもらうことにしましょう」
大王は行幸に乗り気ではなかった。むしろ退位のことばかり考える日々であった。離宮であった川原宮(かわはらのみや)に私的な寺院をつくり、健の供養をするのが唯一の慰めとなっていた。
四十九日の過ぎたころ、有間は川原宮にできた本尊の阿弥陀仏を拝したいと大王に面会した。密かに作らせた寺院であるが、さすがに大王の作らせたものは市経にある金堂とは比べ物にならなかった。黄金に輝く仏像を前に有間の心は仏門への願いを募らせていった。この時の斉明天皇は仏教だけではなく道教の信仰にも厚く、政務は中大兄皇子に任せきりであった。その心境を理解したのが有間であった。大王は喜んで有間を出迎えた。経を唱える有間に感心もするのだった。
「まことに、そなたは僧侶となりたいのか」
「はい、そのように考えております」
 のぞきこむ有間の瞳は澄んでいた。斉明天皇は有間の顏を見るたびに脳裏から離れないものがあった。斉明天皇にとって弟である先の大王、孝徳天皇と交わした約束である。孝徳天皇は有間が高御座に上がることを願っていた。その時の約束は虚言ではなかった。しかし成長する二人のわが子を目の前に、その気持ちが揺らいできたのも事実であった。有間自身が僧侶を望むことは好都合である。だがそれは真意からでたものか、朝廷をかく乱するものか、判断はつきかねた。大王は小さくため息を漏らした。有間はそんなことに頓着することなく本尊をみつめ、合掌していた

真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む  (56)

鎌足は謀反の罪で自害した右大臣、蘇(そ)我倉(がくら)山田(やまだの)石川(いしかわ)麻呂(まろ)の義弟である連子(むらじこ)を強く推挙した。彼は大極殿での出来事に参列しており、中大兄皇子の武勇に共鳴し、崇拝もしている。温厚な性格ながら蘇我一族を率いている。蘇我の勢力には太郎を刺殺したという遺恨を抱いているものも少なからず存在し、その力には侮れないものがある。その牙を抜くためにも勢力の二極化を図りながら朝廷側に抱え込んでおく必要があった。そうした状況は理解しながらも蘇我氏の名前が挙がったことに中大兄皇子は深いため息を漏らした。
「年からすれば兄の連子(むらじこ)だが弟の赤(あか)兄(え)はどうか?」と、中大兄皇子は聞いた。
「確かに赤兄は凡庸な連子に比べ、血がたぎっております。赤兄の元なら蘇我一族は武器を持って集まることでしょう。ですから蘇我を連子と赤兄に二分しておかなくてはなりません」
「そんなやつを野放しにしておくのか」
「赤兄は野心家であります。その野心がどのようなものか見極める時が必要でございます・・・それからの起用でも遅くはありません」
「そうか・・・」

 彼らの思惑の渦中にいる赤兄は朝廷からの帰路、不満の色を浮かべていた。一歳しか変わらない連子が左大臣になったことは意外であった。ほかの人間ならまだしも、幼い時から知っている連子である。彼が自分を差し置いて優秀だったことは一度たりともなかったと、思いめぐらす。中大兄皇子と最も親しい関係にあるのは自分の方だと思い込んでいた。いずれ娘の常陸姫を嫁がせるつもりにしていたがまだ十歳であった。何もかもが思惑通りにいかない。官吏として朝廷に出向くようになって初めて味わう挫折感であった。これからの日々、連子にいちいちお伺いを立てて額ずかねばならないことは苦痛であった。
一方、これまで目立つ存在ではなかった連子は紫冠を載せるとそれなりの振る舞いが身につくらしく、大王をはじめ中大兄皇子も満足するふうだった。そんな様子も、赤兄にとっては気分の落ち込む毎日だった。
 四月になると阿倍(あべの)臣(おみ)比羅夫(ひらふ)が蝦夷の討伐を開始した。聞こえに高かった彼の水軍の力は北海道へとも足を延ばす勢いで、朝廷も力を入れることとなった。東北の辺境では小さな騒乱が続いており、それを朝廷が掌握することは乙巳の変から続いていた国造りにとって大きな力となる。東北を平定することは対外的にも大和の国をおさめる大王の権威を印象づけることができる。大がかりな軍事行動は朝廷内の話題であった。大王を差し置いての中大兄皇子の発言力に意を唱える者も影をひそめ始めた。長引く土木工事批判の中、「漏刻」を建設するという計画が密かに進められた。
 赤兄は中庭を歩く鯯魚の姿を目にした。ともに近寄り、親しげな挨拶が交わされた。二人は請安塾で学んだ顔見知りであった。二人の会話は阿倍臣比羅夫の武勇であり、水軍の勢いのことであった。
「ところで、鯯魚どのの水軍は新羅に向かっていると聞くが」と、赤兄は話しながら廊下に腰を落とした。その横へ鯯魚も並んで腰を掛けた。
「いや、夏が過ぎたころになろう。貿易を目的としているが、新羅の情勢を探るためでもあるから、それなりの人数を確保しているところだ」
「大王の意向であるのか」
「むろんだ」
「ところで、市経の噂は聞かないが、有間皇子様は元気になられたご様子だと聞いたが、あまり朝廷ではお見かけしない」
「亡くなられた先の大王の血を受けて、なかなかの勉強家であられる。厩(うまや)戸(どの)皇(み)子(こ)の聖地であるという市経の土地柄からか、村人は信仰に熱い。有間皇子様も金堂をおつくりになられ、瞑想に励んでおられる」
 赤兄は何かを思案するふうに口を開けたが、言葉を吐き出さずに口元を結んだ。しばらくたって、何かを思い出したふうに「出家でもするのであろうか」と、声をひそめた。
「いずれ・・・そのように考えておられるのかもしれぬ」と、鯯魚は赤兄を見つめ慎重に答えた。
「それがよい方向かもしれぬ。しかしもう少し、宮廷の方へも出向かれよ」
「そうだな。そのように伝えておく」
 散り始めた桜の花びらが二人の足元に舞っていた。

真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む  (55)

翌朝、有間は馬にまたがり市経の里へ出かけると言い出した。
「大そうな支度はいらぬ。皇子であることを知られないほうがよい」
「そのように申されても、警護は必要です」という米麻呂に「そちだけでよい」と、言うのだった。末席に座る小乙と目があった。
「どうした、そなたまで憂いた顔になって」
小乙は慌てて額ずき、しどろもどろの言葉を発しては有間を笑わせた。民へのねぎらいの気持ちを伝えたいという思いに小乙は言葉を濁した。有間が宮から出るという事も珍しいことであったが民の様子を見たいというのも湯治の成果であったかもしれないが、最近の様子は見せたくない風景であった。
「今年は豊作とは言えない年でして・・・」と、小乙は思いとどまることを説得するが、「なおのこと見てみたい」と有間は譲らなかった。鯯魚と米麻呂も同じ思いであったが仕方なく馬を引くことになった。大石と薬も従った。小乙はたった四人を連れて出ていく後姿を見送った。
馬を走らせると異様な風景が広がっていた。干ばつに襲われたかのように田畑は荒れ、人影も見当たらない。
「どうしたことか」と、有間に問われるまでもなく米麻呂が応えていた。
「朝廷からの労力に駆り出され、期限が来てもとどめ置かれることが多く、里に帰ることができない有様。特にこの地方の民たちは一年も帰っておりません。女、子どもだけが残され、自分たちの食いぶちにも困る有様で餓死する者も出ております」
「なぜそのようなことになっている?」
米麻呂は宮殿だけではなく、両槻の宮の造営を詳細に語った。有間の瞳が曇っていく。大きく息を吸い込んでいるが、深いため息をつくというより、怒りが吐き出されるかと思うほどだった。有間に付き従う者にとって、これほどまで歪めた表情は見たことはなかった。
「皆が申しております。狂(たぶれ)れ心の渠(みぞ)と・・・」と、大石が口を開いた。薬も合いの手を入れるように、「巨石の採掘で起こりました落石事故で多くの死人も出ております。彼らの恨みが神殿の木を朽ちさせるのだと聞いております」
「噂など並べ立てることではない」と、鯯魚が二人に注意する。有間は言葉を発することもなく遠くを見つめていた。
「そのようなことはいつまで続く?」と、鯯魚に聞いた。
「おそらく、今年の冬には一段落するのではないかと思われます。しかし、工事の完成にはまだまだ時間のかかることだと思います」
「大王が民を苦しめるような施政をなさるはずはない」と、有間はつぶやくように言う。
「これほどまでの土木工事は今まで見たこともありません」という大石。その言葉を遮るように、「土木工事は国造りに欠かすことはできません。穀物を作るのには水は必要。そのための工事は仕方のないこと」と鯯魚が強く言った。
「しかし、期限が過ぎても帰ることができないというのはおかしい」と、薬は大石と頷き合う。
「そのような話は皇子様の前でするべきではない」と、米麻呂が二人を睨んだ。
「どんな話でも聞かせてほしい」と、有間は風景に目をやりながらぽつりと言う。
「おそらく・・・朝廷は一つにまとまっていないのではないかと思われます」と、鯯魚は答える。
「そんなふうに思う根拠はあるのか」と、有間は聞いた。
「確かな根拠はございません。ただ、大王様は祭りごとよりも道教信仰に傾倒しているふうでございます。そのことによって中大兄皇子様の発言が強くなっており、それに従う者と従わないものとがにらみ合っていると、これも噂ではありますが」
「このことに関しては有間皇子様が深入りなさらないようお願いしたい」と、米麻呂は鯯魚の言葉を遮るふうに言った。以外にも有間は素直に頷いた。
「鎌足はどうしているのであろう」
「鎌足殿は外交問題を引き受けている模様で、今回は新羅よりも蝦夷討伐の準備に追われているようであります。そして何よりも、中大兄皇子様の側近であり、反対派ににらみを利かせている存在であります」と、鯯魚は応えた。
「私は幼いころから鎌足のことはよく知っている。この国のために働く男だ。しかし、市経の里は豊かな土地であったはず・・・」
有間の沈んだ思いに慌てた鯯魚と米麻呂は顔をみあわせる。
「有間皇子様は世の中を見る目をお持ちです。確かに今は冬のような風景でございます。が、大王の施政はまだ始まったばかりといえます。どのような形に収まるのか見届ける時期かと思われます」と、鯯魚が有間の顏を覗きこむ。有間は遠くに目を向けたままであったが、鯯魚の忠告を胸に響かせるふうでもあった。
その日から、ぶらりと馬に乗り、市経の里を駆け巡っているかと思えば、宮につくらせた金堂で一日を送ることもあった。ほとんど宮廷に出向くことなく金堂にこもりきるようになった。有間の振る舞いは小乙にとって気が気ではなかった。ふたたび病がぶり返したのではないかと思う時があるからだった。
「このことは朝廷に漏れ聞こえないよう」と、鯯魚が箝口令を敷いた。米麻呂も気が気ではなかった。小乙が食事を運ぶが手を付けないこともあった。金堂の外で、身動きもしないで待っていると日が暮れる時もあった。
「米麻呂、そのようなところで待たずともよい」と、有間が金堂の外へ足を踏み出した。
「いえ、これが私の役目でございます」と言いながら、慌てて額ずこうとするが体が硬直してしまい地面に倒れ込んでしまった。有間はすぐさま手を差し伸べた。いつもの有間なら笑いながら米麻呂をからかったかもしれない。だが無表情のままだった。
「私はこの中で何をしていると思う?」
「それは・・・観音様に祈りをささげているのかと・・・」
「いや、何もしておらぬ」
「・・・」
「私はこの世の中を助けることも変えることもできない。何もしていないのと同じだ」
 米麻呂は気の利いた言葉を探すことに体が汗ばんできた。なんとしてでも有間の陰りを帯びた顔を明るくさせたいと願った。
「厩戸皇子様は金堂で多くの経を詠んでおられたと聞いております」
「それで民は救われたのか」
「厩戸皇子様が学ばれたからこそ、多くの経典が今日の世に伝えられているのです。私をはじめ、多くの民はそのような尊いものを目にする機会はありません。しかし、水の流れと同じ、下の方へと広がってきます」
 二人は、遠くから小乙が小走りに駆け寄ってくるのを眺めた。
「額田王様から伝令がとどいております」と、小乙は息を切らせながら額ずいた。
「以前もお断りになっておられるので、今回は断れません」
「歌は得意ではない・・・」と、有間はため息をついた。
「歌は皇子としてのたしなみ。学ばねばなりません」と、小乙は毅然という。その姿に有間の表情は緩んだ。

斉明天皇四年目、新年の儀が終わってすぐに左大臣の巨勢(こせのおみ)徳(とく)太(た)が死去した。右大臣であった大伴連(おおとものむらじ)長徳(ながとく)は孝徳天皇在位中にすでに亡くなり空位のままだった。そのことは鎌足が朝廷で力をつけるきっかけともなっていた。左大臣を起用するにあたって鎌足は中大兄皇子の館に呼ばれていた。
プロフィール

西 あまり

Author:西 あまり
ウエブ同人誌 ”銀河”の「西 あまり」の部屋へようこそ!
第一作目を連載します。(1)からお読みください。

  
私の夢は小説家になることでした。
でも、私の人生は忙しすぎて、そんな夢のことなど忘れていました。それを思い出させてくれたのが、ブログを共にやろうという友人です。
私の人生を竹の節目でとらえてみます。
結婚式を目前に襲ったマリッジブルー。
結婚指輪の代金を自転車に替え、九州一周の一人旅に出発することをおもいつきました。一か月間は未知との遭遇。
帰ってきたのは結婚式の一週間前。
次の節目は私を育ててくれた祖母の死。
36歳にして400ccのバイクの免許を取り、小学生になる子供を夫に預け、北陸一周に向けて一人でツーリングすることを思いつきました。
この時はバイクが大破する事故に遭いながらも体は無傷。
次に40歳にして離婚という節目。
この時は自転車でもバイクでも無く、四輪の車を使って娘と九州一周の旅に。
最大の節目は母の死。
母との確執は無残な死に方を目の当たりにするまで、消えることはなかったのです。
このショックは長引きます。
一つの新聞広告が私を救ってくれました。
奈良大学の通信生募集です。
もう一度、好きな仏像の勉強をしてみようかと~
そこで友人に出会わなければ、小説を書くことなど忘れていたことでしょう。
最後の節目の竹を割ったとき!
今、まさにその時だと思っています。小説家を目指すもう一人の私が出てくることを期待しているのです。

なお、同人誌・ウエブ“銀河”は岡本と西が運営しております。参加してくださる方をお待ちしています。
同誌のメンバー紹介やコンセプトなどの詳細は、下記のリンクよりご覧いただけます。

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