真(まさ)幸(き)くあらば また還(かえ)り見む ( 20 )
譲位を頑固に押し通した皇極天皇の胸中は誰も推し量ることはできなかった。クーデターの責任をとったという者もいれば寵臣であった蘇我太郎の最後にショックを受けて閉じ籠っているのだとも伝えられた。そんなことを噂するのも一握りの皇族と女人たちで、新体制に影響することではなかった。
蘇我氏という後ろ盾を失った古人皇子は高御座の辞退を申し出ただけではなく、身の危険を考えてか出家するといって宮廷を去ってしまった。その直後、中大兄皇子が即位するという噂が立った。本人もその意欲を見せていた。だが長老たちの顏は一様に硬かった。中大兄皇子が未経験者で若いというだけではなさそうだった。しかし高御座を空席にはできない。夜を徹しての議論が続き、結論の出ないまま明け方近くになってそれぞれが部屋に引き下がった。
空が白みはじめるころ、宮廷内の動きが慌ただしくなった。皇極天皇の弟であり皇族の長老であった軽皇子が高御座に向かい入れられるという情報が走った。長老たちの意向を配慮しての人事だという噂が続いた。
一旦は断っては見るが軽皇子にも野望はあった。中大兄皇子の野望と密かに見え隠れする鎌足の存在に気が付かないわけではなかった。その鎌足の強い進言を聞き入れる形となった。孝徳天皇の誕生である。
その日の内に、重要なポストである左大臣に小足媛の父親である阿倍(あべの)臣倉(おみくら)梯(はし)麻呂(まろ)を選出、右大臣に今回の功労者である蘇我倉山田石川麻呂を配置した。阿倍氏は蘇我氏に次ぐ家柄であり、どちらも長老を配下に収める力を持っていた。
鎌足には今までになかった内臣(うちおみ)というポストが新たにつくられ、与えられることになった。鎌足を相談役として表舞台で発言できる地位を作ったことは中大兄皇子の意向もあったが、大王にとっても目の届くところにおいておきたかった。
これまでにも軽皇子の教師であった僧旻と有間の家庭教師である高向玄理を国学博士として宮廷に迎え入れた。孝徳天皇にとっても彼らとは親しい。彼らとともに学んできた知識を生かして唐に並ぶ国づくりを考えようとした人事だった。これらの人選に中大兄皇子は異議を唱えなかった。鎌足の進言であろうと考える者もいたが、なぜか中大兄皇子と共に鎌足は控えめな態度に徹していた。
学者肌の孝徳天皇は次々と法令や制度を打ち出していった。傀儡天皇であると噂する者への誇示でもあったが高い理想を持っていたのも事実だった。
高御座からひとつの法令が出るたびに中央の豪族たちが揺れ、それが地方へと波及し、宮廷内でなにがおこったかもわからない末端の百姓たちにもわずかな変化を感じさせた。彼らにとって国が大きく変わろうとしているのかどうかは解らない。
宮廷に激震が走ったのはそれからわずかな時だった。都が移されるという。これまで飛鳥にあった都を、宮殿が置かれたこともない難波に移すというのであるから百姓たちにとっても労働力の提供は死活問題であった。
遷都は孝徳天皇ひとりの判断ではなかった。飛鳥は蘇我勢力の地である。蘇我臣蝦夷、太郎親子が悲惨な死を遂げたことは残った勢力が結集しやすくなる。現に、吉野へ隠匿した古人皇子を担ぎ出そうとする蘇我氏の勢力に動きがあると報告する者もあった。
難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)の造営が進み、完成を待たずしての引っ越しとなった。皇族、豪族も長年住み慣れた土地を後にしなければならないのは疲労の極みであった。そんなさなかに、古人皇子の謀反の事件は起きた。その噂が広がるまでもなく、中大兄皇子が指揮をとって襲撃に向かった。消えることのなかった噂が現実となったが、事件は引っ越しのさなかに紛れ、真偽を確かめられることもなく古人皇子は消えていった。
小足媛の身辺も経験したことのない慌ただしさで引っ越しが進められていた。難波は小足媛の父である阿倍氏の勢力下であっただけに安堵するところもあるが、小足媛は皇族の出ではないため妃のままの位置だった。大王になれば皇后を迎え入れることになる。そのことよりももっと憂慮すべき事態は有間が一番近い皇位継承者になったことだった。小足媛の危惧などよそに、有間にとっては新しい環境に胸を躍らせていた。これまで以上の侍従が付くことは遊び相手も多くなったという事であり、皇族の子どもたちが取り囲んでくるようになったのも嬉しかった。